『日常』という名の光
(聖・祐巳)
「祐巳ちゃん…?」
とぼとぼと歩いていると、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえて、祐巳はゆっくりと振り返った。
「ああ、やっぱり祐巳ちゃん。今日和。どうしたの?元気無いみたいだけど」
「加東さん…」
ごきげんよう…と小さく頭を下げると、祐巳はそのまま顔をあげられなくなる。
「ちょ…どうしたの?」
「…今日、テストの答案が返ってきまして…でも今回、どうも勉強に集中出来なくて、いつもより良くない点で……私は紅薔薇のつぼみだから、少しでもお姉さまにご迷惑が掛からない様に、と思っているのに…」
以前…あの梅雨時期の辛かった時に優しくしてくれた加東さんの顔を見た途端、気が緩んで思わず愚痴めいた事を云ってしまった。
「あはは、すいません…何云ってるんでしょうね、私」
では、ごきげんよう、と云おうとした時。
ポンと祐巳の肩を叩いて加東さんが云った。
「ちょっとやってみましょうか」
「え?」
突然の加東さんの言葉に頭の回りに?マークが飛んでいるのが見える人には見えてしまったかもしれない位、祐巳は惚けた顔をしてしまったに違いない。
「これでも大学生なんだから、少しは教えてあげられるわよ」
それを聞いて加東さんが「勉強を見てあげるから家にいらっしゃい」と云ってくれてるんだって、祐巳はやっと気付いた。
「で、でも…いいんですか?こんな急に…」
「構わないわ。祐巳ちゃんなら大歓迎」
「そうそう。ちょっと帰るの遅くなります、晩ご飯も食べて帰りますって私から祐巳ちゃんの家に電話入れてあげるし、帰りは私がブーブーで送ってあげるから」
「それじゃ…お言葉に甘えてお邪魔しま…って聖さま!?」
後ろから聞こえてきた声に振り返ろうとして、果たせず。
いつもの様に後ろから抱きつかれてしまった。
「…サトーさん…私、貴方は招いてないけど…」
「うっわ酷っ!カトーさんってばそれ差別!?ねぇ差別!?祐巳ちゃんにはあんなに優しい言葉掛けるのに!」
「当然でしょ。祐巳ちゃんは可愛いもの」
「あ、あのぅ…加東さん?」
「そりゃ祐巳ちゃんが可愛いのは当然だけど」
祐巳を抱き締めたままブチブチ云っている聖さまに、加東さんは溜息をつく。
「まぁ、いいわ。祐巳ちゃんを送っていく運転手として、うちに来るのを許可する事にする」
「なにおー、私だって祐巳ちゃんの勉強見てあげられるんだからー」
まだ聖さまは祐巳に張り付いたままだ。
話す度に聖さまの髪が首筋に当たって、なんだか酷く落ち着かない。
ふわりとシャンプーか香水の香りがする。
なんだか、ドキドキしてしまう。
こんな風に抱き締められるのなんて、慣れっこになってるのに、何故こんなにドキドキして来るんだろう。
この間、温室で聖さまに泣きついてしまってから、なんとなく祐巳は変なんだ。
ふとした時に、あの時の聖さまを思い出す。
『解ってるから…』と云いながら、優しく抱き締めていてくれた聖さま。
祐巳は、ドキドキしている心臓の音が聖さまに気付かれやしないか、妙に気になる。
「さ、行こう行こう♪ほら祐巳ちゃん」
ぽん、と背中を軽く叩いて、聖さまが離れて祐巳の前を歩いていく。
「祐巳ちゃん?」
聖さまを見ていた祐巳に、加東さんが不思議そうに祐巳の名を呼んだ。
「あ、はい」
祐巳はハッとした様に歩き出す。
バス亭二つ分位歩いた処にある、加東さんの下宿先へ。
□
「…これが『勉強見てあげられるんだからー』なんて云ってた人間のやる事かしら…」
加東さんが呆れた様に呟いた。
祐巳もガックリと肩を落とした。
加東さんの下宿先に着いて、大家さんの弓子さんに挨拶をしてからお部屋にお邪魔した。
弓子さんは祐巳の顔を見てとても喜んでくれて。
一足先に部屋へ行った加東さんから聞いた様で、メープルパーラーのクッキーをおすそ分けしてくれながら「今晩はシチューだから、一緒に食べて頂戴ね?」と弓子さんは微笑んだ。
加東さんのお部屋へたどり着くと、早速聖さまが優等生モードで祐巳の家に電話をしてくれた。
ある程度の説明も聖さまがしてくれて。
その後祐巳が受話器を受け取ると、お母さんはとても弾んだ声だった。
『んもー、祐巳ちゃんたら幸せものよ?白薔薇さまにお勉強見て戴いて、しかも送って戴けるんだから!しっかり教わっていらっしゃい』だって。
で、その教えて戴ける筈だった、お母さんが大ファンの白薔薇さま…もとい、前白薔薇さまの聖さまは…
「寝てますね…とても気持良さそうに…」
そうだった、この人はこういう人だった…と祐巳はこの処ずっと落ち着かない気持だった自分を恨めしく思う。
この人のせいで、勉強に集中出来なかったなんて、と。
「数学は私の範囲外だから、カトーさんよろしくー私最近寝不足でねー」とかなんとか云ってそこにゴロン、だもん。
祐巳は聖さまの綺麗な寝顔を見ながら溜息をついた。
「……英語は、くすぐってでも起こして教えて戴きますからね」
そう云って、祐巳は目の前の問題を解く事に意識を集中した。