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「さて…休憩しましょうか。お茶入れて来るわね。」
「本当に有難う御座います。今まで解らなかった所も解った感じです」
加東さんは「いいえ」と笑顔を見せて空のカップを手に、キッチンへ。
「サトーさん、叩き起こした方がいいわね。全くもう…そろそろ一時間よ?」
「あはは…」
でも、さっき気がついたんだけど、聖さまが寝不足だと云っていたのは本当かもしれない、と祐巳は思っていた。
少し顔色が良くなかった。
「聖さま」
背中を向けて寝息を立てている聖さまに、そっと声を掛けて顔を覗いてみる。
「…せ…」
名前を呼び掛けて、やめた。
胸がざわつく。
祐巳は制服のポケットからハンカチを取り出すと、そっと今に流れ落ちそうな目頭に溜まった涙を拭った。
「…ん…?」
ゆっくりと目を開く聖さまに、祐巳の心臓が更に大きく跳ねた。
私…なんでドキドキしてるんだろう。
ゆっくりと開いていく目が、祐巳を認めて焦点を合わせた。
「祐巳、ちゃん…?」
不思議そうな目で祐巳を見上げる聖さまを、何故か言葉を忘れて見つめていた。
「…んん?どうした?祐巳ちゃん?…もしかして寝てる私にチューしようと…」
「…っ、違います!聖さま、よだれ垂らして寝てましたっ」
起き上がった聖さまのとんでもない言葉に、止まってた祐巳の思考回路が急回転、何故かおかしな事を口走った。
「ちょっとサトーさん、私のクッションによだれ垂らさなかったでしょうね」
祐巳の言葉を聞いてか、加東さんの声がキッチンから聞こえてきた。
「大丈夫です、私が流れ落ちそうだったのを阻止しましたから」
祐巳が手のハンカチをポケットに仕舞いながら云う。
「…おっかしいなぁ…よだれが出る様な夢なんて見てない筈だけど…。あ、カトーさんお手洗い借りるよー」
立ち上がって行く聖さまの背中を見ながら、祐巳は心の中で『ごめんなさい』と謝った。
よだれじゃなくて、本当は涙だったんです、と。
だけど…もしかして、聖さまは栞さんの夢を見ていたんだろうか。
そう思うと、何故か祐巳は聖さまを真っ直ぐに見るのが辛くなりそうだった。
やっぱりまだ聖さまは栞さんを好きなんだな…って。
「どうしたの?祐巳ちゃん」
加東さんが紅茶とクッキーをトレイに乗せてキッチンから戻ってきて、祐巳を見た。
「は?」
「なんか、泣きそうな顔してるわよ?」
「え?え?そうですか?聖さまの寝顔見てたら欠伸出ちゃったからでしょうか…」
「…じゃあ眠気覚ましに、ハイ」
何か云いたげな顔を加東さんはしたけれど、そう云って祐巳に紅茶とクッキーを差し出した。
□
お手洗いから戻ってきた聖さまは、何故かすんなりと祐巳の英語を見てくれた。
いつもの様に茶化したり冗談を云ったりとか、そういうのがほとんど無かった。
それは加東さんがいぶかしむ位。
「…サトーさん、どうかした?」
「ん?何が?」
「……なんでもないわ」
加東さんはそこまでしか云わず、祐巳もなんだかいつもと違う様な聖さまに何も云えず、英文法についての問題を説明してくれている聖さまの顔を見つめているだけだった。
…でも、弓子さんの所で夕飯をご馳走になっている時は普段と変わらない聖さまだった。
なんだか、祐巳は混乱してきてしまった。
眠りながら、泣いていた聖さま。
それと何か関係あるのかな…なんて。
「それじゃあ、加東さん、今日は本当に有難う御座いました。弓子さんに、夕飯ご馳走様でした、と」
「また来てね。私は勿論、弓子さんも喜ぶから」
「はい。ではまた…」
「サトーさん、祐巳ちゃんをきちんと送ってよね」
「はいはい解ってますよーだ」
加東さんのお家を出る時、20時を過ぎてしまって。
弓子さんはもうウトウトとしていたので、そっと加東さんにそう告げてお家を後にした。
「聖さま、お車で登校しているんですか?」
少し離れた所に駐車してあった聖さまの車を見て、祐巳は疑問に思っていた事を聞いた。
「いや、リリアン女子大は車通学禁止だから…って、前に云ったっけ。今日は大事な講義の時間を間違えて憶えててね。慌てて車で来たのよ。で、カトーさんに頼みこんでここに置かせて貰ったんだな」
だからブーブーは今日だけ〜、と聖さまはドアの施錠を解除しながら笑った。
「さ、乗った乗ったー置いてくぞー」
「うわわ」
祐巳は制服のスカートのプリーツを気にしながら慌てて助手席に乗り込む。
「一応、祐巳ちゃん家の住所は大体把握はしてるけど、細かい事は解らないからさ、住宅地に入ったらナビお願いね」
「はい。お手数お掛けします」
祐巳がそう云うと、聖さまは「手数なんかじゃ無いよ」と苦笑して車を発進させた。
少し走った所で信号に捕まり、停車している時、祐巳は先程の事を口にした。
「聖さま」
「んー?」
「ごめんなさい、さっき『よだれが』なんて云っちゃったけど…よだれなんて出てませんでしたから」
「…ああ…うん、解ってる。私、泣いてたみたいだね」
祐巳が云うより先に、そのものズバリ、云ってきた。
それに言葉を思わず飲み込んでしまった祐巳に聖さまは苦笑する。
「お手洗い借りた時にね。鏡見たら、こめかみの所が濡れてたから……そっか、気使わせちゃったか…」
信号の色が変わり、車を発進させる聖さまに、祐巳は何も云えない。
祐巳は別に気なんて使っていない筈だけど、もしかしたら、聖さまの方が…って。
「…ねえ祐巳ちゃん、少し遠回りしちゃっても構わない?」
「は?遠回り、ですか?」
突然の言葉に祐巳は意味が掴めず聞き返した。
「遠回りっていうか…少しドライブっていうか…ね。あ、大丈夫大丈夫。人気の無い暗がりに車止めたり休憩所に入ったりとかはしないから安心して」
「…そんな事云うなら今直ぐここで飛び降りますよ」
「あはは。じゃあオッケイだね」
しゅっぱつしんこーなすのおしんこー!なんて云う聖さまに「何云ってるんですか…」と呟きながら溜息をつく。
内心「聖さまも『ク●ヨンしんちゃん』とか見るんだなぁ…」なんて思ったりしたんだけど。
窓の外を見ると、光が流れる様に景色が変わって行く。
運転する聖さまは真っ直ぐに前を見ていて。
その聖さまがいつもの聖さまとちょっぴり違っていて祐巳は、やっぱり少しドキドキする。
お正月に初めて聖さまが運転する車に乗ったけれど、あの時は聖さまも運転に慣れていなかったからか、妙な緊張もあったし、祐巳はもうただ「恐い」という感じしかなかったけれど。
でも今はあの緊張は無くて、ほんの少し余裕もある感じ。
走り出しもブレーキングもスムーズ。
なんだか、カッコイイな、なんて。
よく外国の映画とかで、女優さんがくわえ煙草で車に乗って街を走るシーンとかあるけど、聖さまならそんな感じも似合いそう。
勿論まだ未成年だから煙草はダメだけど。
でも。
「ん?なぁに?祐巳ちゃん、ジーッと見て」
「え?」
「ああ、そっか。祐巳ちゃん前に一度乗ってるもんね。運転上手になってきたでしょ?」
「え、あ、はい。カッコイイです」
思わず、ぽろりと落とした本音に聖さまが破顔するのを見て、そんな顔にも見とれてしまう自分に慌ててしまう。
そんな祐巳に、聖さまは新たなる爆弾を落としてくれた。
「惚れ直しちゃう?」
祐巳は冗談に決まってる爆弾発言に、聖さまのお顔を見たままで固まってしまった。
そして、カーッと頬が熱くなっていくのを感じて慌ててうつむく。
「ちょ…祐巳ちゃん…?」
聖さまが、驚いた様な声で祐巳の名を呼ぶ。
「な、なんでもないです!」
「そ、そう?」
慌ててうつむいたまま云うと、聖さまも祐巳につられたのか、慌てた様に返してきた。
そのせいか、車内になんとも云えない空気が漂ってしまう。
き、気まずい…
そんな風に祐巳が思った時、聖さまはポリポリと頭を掻くと、うーん、とひとつ唸った。
「…ラジオ、入れていい?良かったらスイッチ押してくれる?」
ちょっと早口でそう云うと、聖さまは何故か苦笑した。
「あ、はい。スイッチこれですか?」
「うん、そうそれ。ありがと」
スイッチを押すと、車内に静かなバラードが流れ出す。
綺麗な女の人の声。
「聖さま、洋楽がお好きなんですか?」
「ん?どうして?」
「いえ、なんとなく、ですが」
「まぁ、嫌いではないかな。邪魔にならないから」
『邪魔にならない』
何故だろう…祐巳はほんの少し、その言葉に引っ掛かりを覚えた。
「…聖さま、さっき云ってた遠回りって…」
何故だかあまり考えたくなくて、祐巳は聖さまが云っていた事を聞いてみた。
すると、ちょっと不思議そうな目を祐巳に向けてから「ああ…」と笑った。
「んー、ただ祐巳ちゃんと狭い車内という密室を楽しみたいなぁ、なんて…」
「…もしかして、夢のせいですか」
相変わらずな聖さまの言葉を無視して祐巳はポツンと呟いた。
その一言で、聖さまの笑顔が少し固まった気がしたのは多分、気のせいではない筈…
祐巳は思わず「ごめんなさい」と謝ってしまった。
「何謝ってんの」
そう云って笑顔を向ける聖さまに、もう一度「ごめんなさい…」と呟いた。
「おかしな子だね、祐巳ちゃんは」
左手を伸ばしてきて、クシャクシャと頭を撫でると、見慣れた門の前で車を止めた。
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