夜明け前
〜前編〜



あ、あと1時間…


祐巳は時計を見ながら落ち着かない気持ちに溜息をついた。
あと1時間位で、聖さまが来る。

『やほー祐巳ちゃん、初詣行かない?11時に迎えにいくからさ』
『へ?明日のですか?』
『ノンノン、今晩11時。あ、おばさまにはさっき了解取ったから』

と、いう会話が昼食後に電話でなされた。
了解取った…って、それじゃ祐巳の意見はいらないじゃないですか、もう。
お母さんを見ると、何故かちょっと浮かれている様に見えるのは気のせいだろうか。
…何を云ったんだろう…聖さまってば。

「解りました」と…「11時ですね」と返事をして、祐巳は受話器を置いた。
聖さまの「今晩は雪らしいから、暖かい格好でね」という言葉が耳に残っている。

ベッドに座って、時計を見ながら祐巳はまたひとつ、溜息をつく。
午後11時08分。
25日から6日…あれから初めて聖さまと顔を合わせる。
イヴの夜を一緒に過ごしたんだけど…シャンパンに少し酔ってしまった祐巳は、酔いにまかせてあんな事やそんな事を云ってしまった。
よくお酒に酔ってした事は覚えていないと云うけれど…でも祐巳に記憶にその事はしっかりと刻み込まれていた。
覚えていなければ良かったのに…でも…覚えていたかった事も、あって…

祐巳はクッションを抱えてベッドにコロンと横になった。
目を閉じると、あの日の事が、ゆっくりを浮かんできた…




 †






なんとなく、肩が寒くて目が覚めた。
うっすらと目を開くとベランダにパジャマを羽織った聖さまが立っていて、動いた祐巳に気付いて振り返った。

「あ…起こしちゃった?」
「…おはよう…ございます…」
「いや、まだそんな時間じゃないよ…今2時くらいだから」

ほんの少し肩が震えたのが見えたのかのように、聖さまはベッドに戻ってきて祐巳を抱きしめた。
でも温かいはずの聖さまのパジャマはひんやりとしていて、思わず体を固くしてしまった。

「あ…ごめん、冷たかったか」

そう云うと、聖さまはパジャマを脱いで素肌を触れさせてきた。
「これなら暖かい?」と聖さまの白い肌に抱きしめられて、思わず心臓が動きを速くする。

「今年は雪は降りそうもないみたいだよ。月が出てる」

云いながら、聖さまは祐巳をベッドに倒して、ふわふわの羽布団を引き上げた。
そして、更にギュッと祐巳を抱きしめる。

…こんな風に出来るのは、祐巳だけなんだ…とふいに思った…その時。

「…!」

思わず、自分が口走った事が思い出された。

聖さまのものになりたいって。
祐巳だけを見てって。
他にも色々と云っていた気がする。
思わず、カッと赤くなるのを感じた。

何云っちゃったんだろう…!
どうしてあんな事、云っちゃったんだろう…!

どうして…云えたんだろう…

急に恥ずかしくなって、聖さまの肌に触れている事すら恥ずかしくなって…でも、顔をあげるのも恥ずかしくて。
祐巳はどうしていいのか解らなくなってしまった。

それが聖さまにも伝わったのか…「どうしたの?」と聞いてきた。

「祐巳ちゃん?」
「な、なんでもないです…」

目を瞑って、祐巳は首を横に振る。
でもそんな事しても、聖さまの腕の中にいる事には変わりがなくて。
それなのに、聖さまが祐巳を引き離して顔を覗き込もうとするものだから、顔を見られたくなくて更に聖さまにしがみ付いてしまった。

もう、八方塞り…いや、何か違う。

そんなこんなをしている内に、聖さまがベリッと祐巳を引き離してベッドに押さえ付けてしまった。

「…祐巳…ちゃん…?どうしたの…?」

祐巳の顔は、聖さまが唖然とするくらいに真っ赤だったみたい。
もうどうしたらいいんだろう、ホント。

もう絶対、お酒なんて飲まない。
そう心に誓う。

「…祐巳ちゃん」

忘れて下さい、なんて事は云えない。
酔った勢いで云った事とはいえ、祐巳の気持ちは本当だから。
忘れてしまってもいいと云える程、簡単な気持ちじゃないから。
でも…だからこそ、恥ずかしい。
本当の気持ちを、云ってしまったという事だから。

「…そんなに見ないで下さい…」

祐巳はぎゅっと目を瞑ったまま、聖さまの視線から逃れる為に横を向いた。
でも、聖さまが祐巳を見ている事が解ってしまう。
視線を、感じてしまうから。

「…恥ずかしいんです…」

あまりに恥ずかしさに、何故だか涙まで浮かんできてしまう。
その涙が零れた時、まぶたに接吻が降ってきた。

「なんか、帰したくなくなっちゃう」
「…え?」

思わず、目を開いて聖さまを見た。
途端に祐巳の目に飛び込んできたのは、聖さまのちょっと切なそうな顔。

「祐巳ちゃんは恥ずかしいかもしれないけど…私は嬉しいんだ…ホント」
「聖さま…」

やっぱり、聖さまには解っていたみたいだ。
今、祐巳がどうして恥ずかしいのか。
聖さまには、どうしたって祐巳の事は解ってしまうんだ。
それはもう、一年生の時、薔薇の館で初めて話した時から、ずっと。
祐巳を『百面相』なんて云ったのは、聖さまだから。

目頭が熱くなって、祐巳の見ている聖さまの顔が、歪んでいく。
また涙が溢れてきてしまったみたい。



「ごめんね…でも、嬉しい」

聖さまの顔が、ゆっくりと近付いてきた。









そうして、25日のお昼過ぎに、祐巳は聖さまに家まで送ってもらって、別れたんだ。
聖さまのお母さまが、聖さまに家に帰るように電話を掛けられたのだそうだ。
別れ際、「帰りたくないな」と聖さまは車の中でポツリと呟いていて…それが妙に心に残った。
「離れたくない」って、聖さまはベッドで祐巳を抱きしめながら云っていた。
でも、それとは別の意味があるような感じがして…何となく、気に掛かった。


「ゆーみ、お母さんがそろそろ用意しろって」
「へ?」

カチャリという音を立ててドアが開き、祐麒がひょこっと顔を覗かせた。
確か祐麒も小林君と初詣に行くと云っていた。
案の定、もう出掛けるらしく、ジャケットを着ている。

「あんた、そんなカッコで行くの?寒いんじゃない?雪が降るって云ってたみたいだよ?」
「人ゴミん中入ったら暑くなるからいいんだよ」
「その人ゴミの中へ入るまでが寒いじゃない」
「車だから平気」
「誰の?」

思わず、なんのためらいもなく聞くと、祐麒は苦虫を潰したような顔をした。
何でそんな顔するんだろう?

「…小林のヤツが、いらない事をいらないヤツに云ったんだよ」

いらない事を?
いらない人に?

何を誰に?と聞こうとしたら、聞かれたくなかったのか行かなきゃいけない時間だったのか、祐麒はドアを閉めてしまった。
「祐巳はあったかいカッコして行きなよ」と云って。

でも祐麒の理屈なら、祐巳もそんなに厚着しない方がいいんだけど…だって、神社までは聖さまの車だし。

車…?
何か引っ掛かった。



コートを手に祐巳が下に降りていくとほぼ同時にインターホンが来客を告げた。
いそいそとお母さんがお出迎えして、祐巳を玄関から呼んだ。
お父さんが「気をつけて行っておいで」と云って笑った。
一緒に行く相手が聖さまだからなんだろうけど…なんだかちょっぴり罪悪感。
何故…ってのはさておき。
祐巳は「行ってきます」と云ってリビングを出た。

玄関から、聖さまの礼儀正しい声が聞こえる。
全く、相変わらずの猫かぶりなんだから。

「いいえぇ、心配なんてしませんよ。何せ佐藤さんがご一緒下さるんですから」

なんだかいつもの二割増くらい笑顔で聖さまにそう云っているお母さんに苦笑いしながら祐巳は聖さまに挨拶をする。

「ごきげんよう、聖さま。お誘い下さり有難う御座います」
「ごきげんよう祐巳ちゃん。では小母さま、行ってきます」
「はい。宜しくお願いしますね。祐巳ちゃんも、ご迷惑お掛けしないようにね」
「ん。行ってきます」

外に出ると、冷えた空気が頬を刺す。
パタン、とドアを閉めると聖さまがそっと頬に触れてきた。

「…久し振り、だね」
「……6日…いえ、7日振り…ですね」

何故だろう…聖さまの笑顔が、泣きそうな笑顔に見えた。







温かな車に乗り込んで、祐巳はホッと息をつく。

「今回はちょっと大きな神社に行こうか」

そう云って、聖さまは車を発進させる。
祐巳は聖さまと行けるなら何処でも良かったので、ふたつ返事でオーケーした。

こんな時間なのに、車が結構多い。
やっぱり大晦日だからなんだろうな…と祐巳は併走する車を横目に納得する。
多分、これからお参りに行く人も多いだろう。
そんな事を考えながら、この一週間何をしていたか、大掃除はいつ終わらせた、とか他愛ない話をしていて、祐巳はついさっきの祐麒の事を話した。

「友達の小林君が、いらない事をいらない人に云ったとかって云ってたんですよ、祐麒のヤツ。でも車で神社まで行くって…誰のなんだろう…そういえば、聖さまもお誕生日と共に免許お取りになりましたし…一足先に免許を取った友達なのかな…って、聖さま?」

聖さまが苦虫を潰した顔をしている。
まるでさっきの祐麒みたいだ。

「ど、どうしたんですか?聖さま?」
「…祐巳ちゃん…それ、祐麒の友達なんかじゃないんじゃない?」
「は?」

じゃあ誰だと云うんだろう?

「普通に友達なら『いらない事』なんて、そんな事云わないと思うんだけど。祐麒なら『友達の車で行く』って云うんじゃない?」
「じゃあ一体誰なんだろ…」

祐巳がそういうと、まるで口にするのも厭って顔をして聖さまは吐き捨てるように云った。

「…真っ赤なギンナンカーに乗った、ギンナンの国のギンナン王子」
「…へ?」

真っ赤なギンナンカーに乗った、ギンナンの国の…って…

えええっ!?
か、柏木さん!?

「な、何でっ!」
「そんなの小林君とやらにまた何やら仕掛けたんでしょ。ほら、一昨年のお正月…祐麒が云ってたじゃない。小林君とやらが柏木にゲームで負けてとか何とか。それがまた今回も繰り広げられたんでしょ」

前髪を掻きあげながら聖さまが溜息をついた。

…思わず、祐巳は弟の今後が気になってしまった。
大丈夫なんだろうか…

「なんか、柏木の毒牙に祐麒が掛からないか、心配になってきた」
「……」

やめて下さい聖さま…そんな不吉な事を云うのは。











神社へと続く道の両脇に、松明が赤々と燃えている。
沢山の人々が、境内を目指して歩いていく。
その歩みは本当に少しずつ…ゆっくりではあるけれど、でも確実に進んでいく。
除夜の鐘が鳴っている。
それを聞いて、祐巳は「あけましておめでとう御座います」と聖さまに告げた。

「おめでと、祐巳ちゃん」

そう云って微笑む聖さまを見ながら、祐巳は初めて家族じゃない人と新しい年を迎えた事に気付いて、そしてそれが聖さまで、なんとなく嬉しくなった。

「祐巳ちゃん、手」
「へ?」
「はぐれちゃったら大変だから繋ごう」
「あ、は、はい」

きゅ、と暖かな手が祐巳の手を握った。
確かに、はぐれてしまったら大変だ。
去年や一昨年に行ったリリアンの途中にある神社より大きくて、その分、人も多い。
下手をすれば、流されてしまいそうだ。
そう考えると、なんだか恐くなって祐巳は聖さまの腕にしがみ付いた。
腕にしがみ付いた祐巳に聖さまは驚いた様に顔をしたけれど、すぐに笑顔になった。

「なんだか、こんな人の中で祐巳ちゃんにしがみ付かれたの、初めてかも」
「…そうでしたっけ」

まぁ確かに、聖さまは高等部の頃から処構わず祐巳を羽交い絞めにしてきてますけどね。

「うん。ちょっと嬉しい」
「そうですか?」
「うん。しかも今年初」

満面に笑みを浮かべる聖さまに、なんだか照れ臭くて真っ直ぐ前を見る。
まだまだ境内までは遠い。

…まだまだ、聖さまと手を握っていられそうだ。






「でも、こんな時間からこんなに沢山の人がお参りに来るんですね」

人の波に流されないように、しっかりと握ってくれている聖さまの手を握り返すと、祐巳にだけ聞こえるような声で「そうだね」と聖さまが云った。
お賽銭を投げて、ガラガラン、と大きな鈴を鳴らしている人を見ながら祐巳は毎年の自分を思い返す。
中等部になってから紅白を最後まで見ても良くなったけど、初詣は明るい時間が定番だったから、こんな時間は初めてだった。
見れば、結構小さな子もお父さんお母さんに連れられて来ている。

なんだか、新鮮。

こんな時間にお参りに来たのも。
こんな人ごみの中で聖さまと手を繋いでいるのも。
何もかも。

「…よかった」

聖さまが、ぽつりと云った。

「え?」
「実はね…ちょっと恐かったんだ…祐巳ちゃんに避けられるんじゃないかって」
「…聖さま?」

そこまで云うと、聖さまは口を噤んでしまった。
祐巳たちのお参りの番が来たから、なんだろうけど…

お賽銭を投げ入れて、ガランガランと鈴を鳴らし、手を合わせた。
いつもはマリア様に向かって手を合わせているのに、と思うとなんだか不思議な気持ちになる。
それでも、良い年になりますように…聖さまとずっと一緒にいられますように…なんて、お願いをする辺り、祐巳もちゃっかりしているのかもしれない。
そして聖さまを見ると、まだ手を合わせて目を閉じていた。
その横顔が、綺麗で…思わず見惚れてしまって。
目を開いて祐巳の方を見た聖さまとバッチリ目が合ってしまって慌てて目を逸らしてしまった。

「祐巳ちゃん?」

不思議そうな聖さまにちょっと赤くなりながら「何でもないです」と云って、祐巳は聖さまの指に自分から指を絡ませた。
そんな祐巳に目を細めると、聖さまは祐巳の手を引いて列から外れると、おみくじ売り場へと進んだ。




おみくじを引いて、聖さまとお参りに来るようになってからいつもするように、木におみくじの花を咲かせてからまた人の波に身を任せる。
ゆっくりゆっくりと進む人の波に、はぐれない様に手をしっかりと握って。



人の波がまばらになるまで、何故か聖さまは一言も話さなかった。



そして…人がまばらになって、聖さまが呟いた。

「ねぇ…祐巳ちゃん…私の部屋、寄っていかない?」



松明の明かりも無くなって、外灯はあるものの、表情をはっきりと見せてくれるほどの明るさが届かない道を歩きながらの言葉に、祐巳は見えないと解っていながらも聖さまの顔を覗き込む。
…なんとなく、聖さまの声がいつもと違っている気がして。

「聖さまのお部屋…ですか?でも聖さま、お家の方に帰られるんでしょう?」
「うん…帰るけど…駄目、かな」

なんだろう。
聖さまの声に、余裕が無い感じがした。
その意味を知りたくて、祐巳は聖さまの申し出を受け入れた。








車の中でも、聖さまは話さない。
ただ車の運転にだけ集中している感じ。
でも、そんな聖さまはまるで祐巳の存在もシャットアウトされてしまったみたいで、ちょっと寂しい。
話掛ける事すら、許してもらえないような…そんな感じすらしてしまう。

だから、祐巳も何も云わずにただ窓の外を流れる景色を見ていた。





…to be continued


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