パジャマ
(聖)
※まずは「髪」をお読み下さい
今日は祐巳ちゃんのお泊り日。
もう何度目だろう。
大切な子と同じベッドに眠る幸せ。
そして、いとおしい子と同じベッドで眠る辛さ。
それらがない交ぜになって私を夢の世界へと誘う。
そんな、幸せで辛い時は、いつまで続くのだろう。
いつまで続いてくれるのだろう。
「な、無い!」
クセのついた髪を手っ取り早く直す為にと、お風呂に入る準備をしていた祐巳ちゃんが素っ頓狂な声を上げた。
キッチンで祐巳ちゃんのリクエストの用意をしていた私は、その声に驚いて振り返る。
「な、どうしたの祐巳ちゃん」
「どうしよう…」
呆然と私を見る祐巳ちゃんに、何が起こったのかと身構える。
「パジャマ、忘れてきちゃいました…!」
まるでこの世の終わりが近いのではと思うような、悲愴感たっぷりの声でそう言う祐巳ちゃんに、正直私は「なんだ…そんな事か…」と身構えていた体の力をホッと抜いた。
「どうしよう…取りに行くにも…」
そう呟きながら解いたツインテールの成れの果てに触れる祐巳ちゃんに、私は思わず苦笑する。
「ゆーみちゃん」
「……」
「祐巳ちゃんってば」
「聖さま…」
悲しげな目を向ける祐巳ちゃんに、私はその髪をわしわしと撫でながら至極当然な提案をした。
「別にパジャマくらい忘れてきたって構わないって。Tシャツでもなんでも貸してあげるから」
「…へ?」
「それとも…私のじゃ嫌?」
スッと目を細めて視線を流すと、祐巳ちゃんが首をブンブンと横に振る。
「嫌じゃないです!嫌じゃない…ですが…構わないですか…?」
何故か頬を赤めて確認してきた。
その表情に「おや?」と思う。
最近、祐巳ちゃんはふとした時にこんな表情を見せるようになってきた。
ほんの少し、大人に近付いたような、そんな表情。
思わず、ドキリとする。
「もちろん。構わないよ?だからお風呂行っておいで。用意しておいてあげるから」
それを悟られたくなくて、くるりとキッチンの方を向いてそう言う私の背に小さく「はい…」という返事が聞こえる。
ああもう…背を向けたくらいでそんな声出さないでよ。
そんな風にされちゃったら、いつ私の我慢の糸が切れるか、解らないよ?
「…処で祐巳ちゃん。Tシャツと、こんな日の為に私がこの間見つけて買っておいたフリフリスケスケ祐巳ちゃん用ネグリジェと、どちらがいーい?」
「フリフリ…!?」
「そしてスケスケ。ねぇどっち?」
くるりと祐巳ちゃんを振り返り、なかなか様になってるだろうウインクを投げつける。
「…!Tシャツがいいです…っ!」
お風呂行ってきます!と真っ赤になってバスルームに駆け込んでいく祐巳ちゃんの、その予想通りの反応に私は苦笑するしかない。
…うん。大丈夫。
まだ、我慢出来る。
まだこんな風に自分をはぐらかせる事は可能。
今は、まだ。
まだあと少し。
私が用意しておいたTシャツを着てバスルームから祐巳ちゃんが出てきたのを見計らって、ピラフの上に乗せたクレープにクリームソースをひと掛けふた掛け。
そしてオニオンコンソメのスープをカップに注いで、カリカリのクルトンを散らす。
それにサラダカップが今日の夕食。
トレイふたつにそれらを乗せてテーブルに運ぶと、髪をタオルドライしている祐巳ちゃんが満面の笑みを見せて呟いた。
「聖さま、カッコいい」
素直にそう言っているのが解るから、思わず照れてしまいそうになる。
「そんな風におだてたって、もう何も出ないぞー」
「おだてるなんて…」
「はいはい。冷めちゃう前に食べてねー」
「むー、聖さまの莫迦っ」
なんだろう。
今日はいつもと違って調子が狂う。
食事の後、祐巳ちゃんが持参してきた数学の宿題プリントを片付けると、何をするでもなく、時間を過ごす。
ソファに座る私の足元には祐巳ちゃんが座っていて、烏龍茶を飲みながらいつも欠かさず見ているドラマを真剣に見ている。
TVは勝手にしゃべっているけれど、私の耳には入ってこない。
ドラマにあまり興味が無い私にとって、それはいつもの事。
所詮、私にとってドラマは誰かの経験やら想像やらが混ざり合った、模造品でしかないから。
以前、蓉子に「そんなものの見方していて、楽しい?」と言われた事があったけれど、これが私だから仕方が無い。
…その時、シャツの胸ポケットに入れていた携帯から音楽が流れ出した。
祐巳ちゃんの肩が、小さく揺れる。
それを横目に携帯を手に取った。
「…はい?」
『あ、ロサ・ギガンティア!…ですけど!』
内心、舌打ちをする。
高等部を卒業して一年以上経っている今でもこの呼び方をする人間がいる。
私がそれを快く思っていない事に気付いているのは、ほんの数人だけだから、仕方が無いのかもしれないけど。
「ロサ・ギガン…?何それ」
『もう!嫌だロサ・ギガンティアったらー』
…うざい。
「で?何?」
『数人集まっているんですけど、ロサ・ギガンティアもどうですか?』
バックにガヤガヤとした雰囲気を感じる。
差し詰め、居酒屋といった所だろう。
「今から?」
『ええ。あ…でも今日土曜だし、どなたかと…?』
盛大な溜息を返してやりたくなるのは、私だけだろうか?
私が参加するならそれでヨシ。
断ろうものなら余計な詮索をしてくるんだろう。
どなたかとご一緒ですか?
お付き合いしてる人がいらっしゃるんですか?
それはどんな人ですか?
リリアン育ちの純粋無垢な乙女たち。
けれど大学というリリアンの中にいながら、少しずつ『外』の世界に染まり始めている乙女たち。
リリアンという場所と仲良くする為に大学部に進んだけれど。
そんな醜悪な部分を目にする覚悟は出来ていたけれど。
その時、組んでいる足に、祐巳ちゃんが触れてきた。
「…あー、悪い。また今度誘って」
そう言って、相手の返答も聞かずに通話を切ってしまった。
「…ごめんなさい」
私の膝に頬を寄せている祐巳ちゃんが小さな声で謝ってきた。
「なんで祐巳ちゃんが謝るの?」
「…だって」
「だって何?」
「…だって…」
いつもなら、こんなに突っ込んでなんか行かない。
祐巳ちゃんの表情が雄弁に語っているから。
自分が来てるから、誘いを断ったと思ってる。
…解ってる。
「…なーんちゃってー」
「!」
「ほんっと祐巳ちゃんの百面相は相変わらずだねぇ」
「ぎゃっ!」
ギュッと後ろから抱きしめる。
恐竜の子供の鳴き声に何故か安心した。
やっぱり、今日の私は何かおかしい…
シャワーを浴びてきて、髪を拭きながらニュースを見ていると、足にほんの少しの重みを感じて目を向ける。
すると祐巳ちゃんが夢の世界へ旅立つ寸前。
私はまだまだ起きている時間だけど、祐巳ちゃんにとってはそろそろ眠る時間。
大体いつもこのくらいの時間になると目がとろんとしてくる。
「…祐巳ちゃん、そろそろ休む?」
「…いえ…」
おや。
いつもならハイって返事が返ってくるのに。
「でも、眠いんでしょ?」
「…嫌です」
「…祐巳ちゃん…?」
どうしたの、と聞こうとした時「もう少し…」という声が聞こえた。
「ん?」
「もう少し、聖さまといたいです」
「私といたい…って…いるでしょ?ベッドだって一緒だし」
なんだろう、ドキドキしてきた。
柄でもない。
すると祐巳ちゃんが小さく溜息をついた。
「…いいです。解りました、寝ます」
「ちょっと祐巳ちゃん?」
「…寝ますから、その代わりに今聖さまが着てるパジャマの上着、脱いで」
「…は?」
その代わりって、一体なんの代わりなんだろう。
「私の着てるTシャツと交換して下さい」
「…どうしてって、聞いていい?」
「ただ、それを着て寝たいだけです…ダメですか?」
ダメですかって…
一体なんなんだ?
アルコール…なんて飲ませてないし。
じっと私を見詰める祐巳ちゃんに諸手をあげて降参する。
祐巳ちゃんの意図が見えない。
「…解った、言う通りにしましょ」
ベッドに座ってTシャツを脱ぐ祐巳ちゃんの白い背中が目に入ってきて、思わず目を逸らす。
パジャマのボタンを外して行きながらも、上着交換という祐巳ちゃんの意図がつかめない。
「はい、御所望の上着」
ポンと祐巳ちゃんへと放って、代わりに祐巳ちゃんが着ていたTシャツに袖を通す。
ふわり、と香ってくる、祐巳ちゃんの香り。
同じシャンプーたちを使ったはずなのに、祐巳ちゃんの甘い香りがした。
しかし、解らない。
なんの意味があるのやら…
「えへへ…」
パジャマに袖を通した祐巳ちゃんが嬉しそうに微笑んだ。
それを見て、私は息を飲む。
「…っ」
Tシャツでは然程気にならなかった違いが、パジャマでは如実に現れる。
私には丁度良い大きさだけど、私より少し小さな祐巳ちゃんの体を包むパジャマは、肩の縫い位置が少し下がっていて。
袖も少し長い。
「やっぱり、聖さまの香りがする…」
どうしよう。
何故か、泣きそうになっている私がいる。
Tシャツから香ってくる、祐巳ちゃんの香り。
そして目の前で、私のパジャマを着て嬉しそうに微笑んでいる祐巳ちゃん。
ふらり、と手を伸ばそうとしている自分に気付く。
ダメだ。
まだ、ダメだ。
まだ、このラインは越えられない。
越えちゃいけない。
「…聖さま…」
祐巳ちゃんが、私を見る。
コラ、祐巳ちゃん、なんで目を閉じるの。
腕に、やわらかい重み。
祐巳ちゃんの髪が私の頬をくすぐる。
背中に、腕がまわる。
…眩暈がしそう。
唇を、こめかみに触れさせて、そのまま、まぶたに滑り、頬を降りていく。
そして、唇に辿り着く。
いつもの様に、ただ触れるだけのキス。
ダメだってば…私…
今ならまだ間に合うから、止まれ。
思考と体が繋がっていないのか、唇が深く重なった。
いつもとは違う、初めてのキス。
「…ん…っ」
祐巳ちゃんの、初めて聞く甘く洩れた声に、私の理性の鍵が、外れそうになった。
『チャラララン♪』
ハッとして、顔を見合わせた。
「…あ」
携帯にメールが届いた。
多分、蓉子だ。
思わず、呆然と私の顔を見詰めていたけれど、次の瞬間、祐巳ちゃんの顔がボン!という音が聞こえたかのように真っ赤になった。
「あ、えっと、あ!そう、お水飲んできますね私!」
小走りにキッチンへ行く祐巳ちゃんに、私は力が抜けたようにベッドに座り込んだ。
「あ…ぶなかった…」
ベッドサイドに置いておいた携帯に手を伸ばすと、メールの主はやっぱり蓉子で。
この間聞いた参考書の件だった。
蓉子に、助けられた。
あのままだと、本当にまずかった。
でも、腕には祐巳ちゃんの感触が。
唇には祐巳ちゃんのやわらかさが残っている。
いつ外れるか解らない、理性の鍵。
もしかすると、それが外される日が直ぐ側まで来ているのかもしれない。
鍵は祐巳ちゃんが持っている。
そしてそれは、私のパジャマの胸ポケットに入っていたのだろうか?
…それじゃ、私自らが、祐巳ちゃんに鍵を渡したって事なんだろうか?
「は、はは…」
こんなにまで、私は祐巳ちゃんを求めているのか?
髪をかき上げる手が震えている。
そして、何かを振り払うように、私はキッチンへ向った。
鍵なんて、このままでは役に立たなくなってしまうかもしれない。
このままだと私はその鍵すら、壊してしまう。
自分の理性を保つ術すら、毀してしまうかもしれない。
キッチンへ行くと、小さくしゃがみ込んでいる祐巳ちゃんがいた。
真っ赤な顔で、泣きそうな顔で。
そんな顔をみただけで、ホラ。
私の理性の鍵が軋んでいる。
「…祐巳ちゃん」
「聖、さま」
自分で決めた安全範囲まで近付く。
丁度、歩幅二歩くらいの距離。
「祐巳ちゃん、送っていくから、お家帰ろ?」
私の言葉に、何かあったのかと表情が変わった。
「聖さま?さっきの携帯に、何か?」
「ううん、違う。そんなんじゃない」
ゆっくりと首を横に振って、否定する。
「そんなんじゃない…このまま祐巳ちゃんと一緒のベッドで、一緒になんて、眠れないから…」
「…え?」
もう、私はこの場に立っているのですら、辛い。
自分の言葉を、今すぐに撤回していしまいそうになる。
祐巳ちゃんの手を引いて、抱きしめて、口付けて…
私は、そんな事を望んでいる。
祐巳ちゃんがふらりと立ち上がり一歩私に向って踏み出した。
「来ないで」
「聖さま…」
「来ちゃ、だめ」
来ないで、決心が鈍るから。
御願いだから。
見る見る祐巳ちゃんの表情が変わる。
こんな時でも百面相は健在だった。
「どうしてですか!」
体毎、しがみついてくる祐巳ちゃんの体を、思わず抱きしめそうになる。
でも、それをなんとか退け、私は祐巳ちゃんの体を離す事に成功した。
「ダメだったらダメなんだってば…このままだと…私は祐巳ちゃんから一歩も引けなくなる…近付き過ぎて、壊しちゃう…」
「な…に云ってるんですか!聖さま!」
祐巳ちゃんを見れない。
見れば、絶対に決心が鈍る。
涙声になってる祐巳ちゃんを見れば、私は祐巳ちゃんを抱きしめてしまう。
目を閉じて、横を向く。
何にも答えない。
そうする事しか出来なかった。
「…解り、ました」
何を云ってもダメだと気付いたのか、祐巳ちゃんがポツリと呟いた。
「…」
正直、助かった、と思った。
もういいよ、と、何度言いそうになった事か…
「でも、今晩は泊めて下さい。もううちの親も休んでますし、今帰ったら、心配します。だから」
それは、当然だった。
祐巳ちゃんの家は本当に良い家だから、もし今の時間に家に帰れば心配しないはずがない。
それに今まで気付けなかった私は、余程余裕が無かったという事になる。
「…解った。じゃ、先に休んで。もう少し、私は起きてるから」
「…はい」
「…ごめん」
祐巳ちゃんの背中に、聞こえない声で呟いた。
ソファーに座って腕を組んで、空を見詰める。
さっきまで、腕に中にいた祐巳ちゃんの残像を抱きしめるように。
すると、ふわり、とTシャツから祐巳ちゃんの香りが鼻を掠めた。
別に、ここまでする事は無いんじゃないか?
思わず自分に自問する。
あんなに必死になって私に食い下がってきた祐巳ちゃんを思い返す。
どうしてですか!何を云っているんですか聖さま!
次第に涙混じりなっていった声。
そこまでして、何故私は拒まなくてはいけない?
一歩引けとお姉さまに云われた言葉が私を縛る。
でも、一歩引かなくては、いつか私は祐巳ちゃんを際限なく求めてしまう。
そして求め過ぎて毀してしまう。
それだけは。
それだけは避けなければいけない事。
…大切だと、いとおしいと思っている子を泣かしてでも、それはしなくてはいけなかった?
カーテンから、白い光が洩れ始めた。
いつの間にか、夜が明けたらしい。
気配に、顔を上げると祐巳ちゃんが泣き腫らしたような目で立っている。
ズキン、と胸が痛む。
私は、一体何をしているんだろう。
祐巳ちゃんを泣かせてまで。
毀したくない、そう思っている子を、何故こんな風に悲しませている?
「祐巳ちゃん…」
今にも、泣き出しそうな目で私を見ている。
どうして、こんな風にしか、出来なかったんだろう。
もっと…方法があったはずなのに。
祐巳ちゃんが、呟いた。
それを聞いた私は、取り返しのつかない事をしたのではないか、と後悔した。
「…帰ります」
後書き
加筆日:20040712
少々加筆しました。
祐巳ver.「早朝」のラスト部分まで。
なんか、聖さまがあまりに…
いかがでしょう、皆様。
宜しければご意見を。
今後の参考に。
執筆日:20040705
危ない危ない。
有難う蓉子さま!って感じです、私自身(笑)
ああー語る言葉が無いです…
ただ皆さんの反応だけが気になります…