さよならのためのキス
-聖-
(後)




途中、何故か解らないけれど、ほんの少し不機嫌になっていた祐巳ちゃんは、それでも車を走らせていく内に変わっていく景色と空気に段々と目を輝かせていく。

私は暑いのを覚悟の上でウインドウを下げてみた。
けれど入り込んできたのはちょっと温めの潮風。

祐巳ちゃんが、私を見る。
驚いたような、嬉しいような、そんな顔で。





「う、わぁ…」

車を駐車場に止めて、広がる海を前に立つ。

感歎の声をあげる祐巳ちゃんを横目に、管理小屋にペコリと頭を下げて、「私は管理小屋の存在に気付いています」というジェスチャーをする。

不躾に此方を気にされているのはたまらない。
これをするのとしないので、結構な違いがある。
まぁ、女二人、不用意に海に入る事はしないだろうと思ってくれるだろうけれど。

「どう?ご所望の『誰もいない海』」
「どうして…」

腕にしがみ付いてくる祐巳ちゃんに、管理小屋から視線を祐巳ちゃんへと戻してその頭を撫でた。

「ここ、遊泳禁止なの。観賞用ってやつ。砂が侵食されてるとか何とかで保護されてるらしいよ」

人が守らなければ、もうこの姿を保つ事の出来ない、可哀想な場所。
もうそうなったら、純粋な『自然』にはなり切れない。

私の腕にしがみ付く祐巳ちゃんの手が、小刻みに震えているのに気付いた。
寒い…訳はない。

「どした?祐巳ちゃん?」

不安げな顔が、私を見た。
自分でも、解らない震えなんだろう…「わかんない」と呟く。

私は震える祐巳ちゃんを胸に引き寄せた。



…もしかして、海の存在に圧倒されたのかもしれない。

たとえ人に管理されようと、『海』。
全ての生物の母。

命の、源だから。

「…人間のいない世界って…こんなかもね…」
「…へ?」



ただ波が寄せる。
それだけが、『時間』を感じさせるもの。
他に生き物がいない。

でも、この海の中には、目に見えるもの、見えないもの、様々な生き物が存在している。

ただ、人間だけがいない。
人が生まれる前、こんな光景が世界には溢れていたに違いない。



「でも…この光景も、人間が保護しなきゃ保たれないくらい、人間の手が入っちゃったんだから、皮肉だよね」


毀すだけ毀して、今更保護を謳って自然だ何だと云いながら、自分たちの生きるための世界を守ろうとする人間。

…あまりな勝手な物言いに正直、吐き気すら覚える。


そして、自分もその『身勝手な人間』だって事に苦笑する。


「聖さま…?」

祐巳ちゃんが、私の顔を見上げていた。

「ん?」
「悲しいですか?」

思わず、驚いた顔をしただろう。

けれど直ぐに微笑んで見せた。

「どうして、そう思う?」
「…何故でしょう…私にも解りません」

解らない。
そうだろう。

でも…この子なら、もしかすると表層ではない部分で、感じ取ってくれているのかもしれない。

「…そっか…祐巳ちゃんがそう思うのなら、そうなのかもね…」


以前、私が…この自然に溶けて込んでしまいたいと…そう思っていた事を。

今でも、この自然に、この海に、この空に…この空気に溶けてしまいたい…そんな衝動に駆られてしまう事を。


でも。

私の腕にしがみ付く、この優しくいとおしい存在がある限り…私は『人』であり続ける。
『自然』の呼びかけに抗っていくのだろう。







次第に暮れていく空に、海も紅くなっていく。
こうして見ていると、海と空は一対なのかもしれない、なんて思う。

でも、海は地上に縛られて、空には近付けない。

海は、空に焦がれて、空の色を映して少しでも空に近付きたいと想う。
そして空も、命を抱える海を愛しむ様に抱きしめる。

けれど、触れ合う事は、叶わない。

ああでも…空気も空の一部になるのなら…
空気は海からも生まれるのだから…

この空さえ…


「聖さま…」

クン、と祐巳ちゃんが私の腕を引いた。
そこで私の思考は停止する。
『私を見て』
祐巳ちゃんの目が、そう云っている。

「…祐巳ちゃんって…」
「はい?」
「いや、なんでもない。そろそろ…行こうか」


云い掛けて、やめた。

ほんとに、なんとなく。
なんとなく…祐巳ちゃんが海みたいだな、なんて思った事は、云わなくても…良い事だから







夕暮れが進む空を横目に車を走らせる。
暫くは海が見えていたけれど、その内に遠く、小さくなって、いつの間にか見えなくなった。

祐巳ちゃんは、窓の外の流れる景色を見ている。
いや、もしかすると眠っているのかもしれない。

車内には、あのCDがエンドレスで回っている。
車に乗り込んで、祐巳ちゃんに「好きなの聴いていいよ」と云ったら、これを選んだ。

このCDが届いてから、もう、何度となく聞いた曲が流れている。
…多分、もう暫くの間、私の部屋で流され続けるだろう。

まだそんなに日が経っている訳でもない、この数日を『思い出』と云うのはちょっと早いかもしれないけれど。
でも、この曲は確実に、祐巳ちゃんと過ごした濃密な数日間を彩る。

ただ…部屋には祐巳ちゃんはいない。
だから寂しさを誘発させてしまうだろうけれど。

それでも、私はこの曲を部屋に漂わせるだろう。












「…うわー、続いちゃってるなぁ…」

段々と周囲の車のスピードが落ちて行き、どうしたものかと思っていたら、ついに動きが止まってしまった。
前方にテールランプの赤が連なっている。

「…事故でもあったんでしょうか」

けれど対向車線は変わらずスムーズに走っていく。
事故なら、それを見ようとする車がスピードを落としてしまう所為で車の数に少しでも変化が出る。
けれど、そんな様子は無い。

…ふむ?

「ああ…そっか、この先に上り坂があるのかもしれない…」
「坂道…?そんなのありましたっけ?」
「うーん、なんでも、視覚的には解らないくらいの坂で、気付かない内にスピードが落ちちゃったりとかで、少しずつ渋滞になっていくんだって。だから、それと解る坂道よりも渋滞になりやすいとか何とか」
「…?よく解りません…」
「うん、云ってる私もよく解ってないから」

頭ではなんとなく理解出来ているけれど、うまく説明出来ない。

「ま、自然の摂理かね」
「…はぁ」

そこで納得してしまう祐巳ちゃんに苦笑する。
『ソレ』を『そうだ』と理解してしまうのが、祐巳ちゃんらしい。
素直というのか、何というのか…

苦笑していると、祐巳ちゃんがちょっと怒ったような顔をしている。

「何笑っているんですか」
「いや、別に?」
「〜っ!もう!」
「うわっ」

ひゅん!と私目掛けてコブシが飛んでくる。
もちろん、当たらない距離で、だ。
それでも思わず窓に体を寄せてしまう。

「祐巳ちゃん危ないって。一応渋滞で止まってるとは云え、運転手にそんな事しちゃダメ」
「うーっ」
「ほら、唸らない唸らない。飴あげるから機嫌直して」
「いりませんっ」

ぷいっ、と窓の方に体を寄せて、祐巳ちゃんは私に背を向ける様な格好に座り直す。
まるでシートベルトにしがみつく様なその姿に、私が更に笑みを深めるとも知らずに。

けれど、5分も経たない内に、祐巳ちゃんはこちらを気にしだす。

ちらり、とこちらを見て、私が気付かないフリをすると、また窓に身を寄せる。
それを何度か繰り返すうちに、段々と寂しげな表情になってくる。

それが可愛くて。
それが愛しくて。

「ゆーみちゃん」
「…なんですか」

声を掛けると、向こう側を向いたままで返事をする。

「仲直り、しない?」
「別に喧嘩なんてしてませんけど?」

意地っ張りな答えが返ってきたのに、私はしょんぼりとした態度を取る。

「…だって、祐巳ちゃん怒ってるもん…」
「…怒ってません」
「嘘。怒ってる。声が怒ってる」
「怒ってませんってば」
「ほら、怒ってる」

そこまで云うと祐巳ちゃんは「仕方がないなぁ」という感じで苦笑する。

「…怒ってなんか、いません」

優しい声。

折れた、という感じ。


「…飴、何味があるんですか?」










いつの間にか抜けていた渋滞。
車はスムーズに道路を走る。

途中、洋館風のレストランを見つけ、丁度夕飯にいい時間だった事もあったから、そこで食事を済ます事にした。

本日のオススメとあったビーフシチューセット。

それを御願いして、ほんの少し、二人でぼんやりとする。

窓の外には、車のライトが流れていて、綺麗。
祐巳ちゃんも、それを見詰めている。

何か云いたいけど云わなくてもいいかな、なんて思ってみるけれど…でも何か話したい…
そんな事を祐巳ちゃんに視線を向けて考える。


ねぇ、何を考えてるの?

そう聞きたい。
けれど、聞けない。

私を襲うジレンマ。
こうしていると、尚更。
相反する気持ちが、頭をもたげ出す。

このまま。
いっそこのまま。



なんて…そんな訳にはいかないじゃない。

思わずもらした苦笑に、祐巳ちゃんが私を見た…その時。

「お待たせ致しました」

そう云いながら店員が近付いてきた。









お肉も野菜も柔らかくてとても美味なビーフシチューにふわふわロールパン、それにサラダやデザートに白桃のシャーベット。

さすがにオススメなだけはあった。
祐巳ちゃんもご満悦らしい。

けれど、紅茶を飲み終える頃、祐巳ちゃんの表情が曇ってきた。

何か云いたげな、その表情。

でも、私は「どうしたの」とは聞けなかった。

そんな無神経な事は、出来ない。

だから、私はただ、微笑む事だけで…紅茶を飲み終えるとゆっくりと立ち上がった。

「…行こっか」
「……はい」


タイムリミットが、もうそこまで来ている。







「…祐巳ちゃん、このまま祐巳ちゃんちに行くけど、忘れ物とか、無い?」
「…ないです…」

あとは祐巳ちゃんの家に向かうだけ。

最後のあがきのように忘れ物が無いか、だなんて。

往生際が悪い自分。

「まぁあったとしても、構わないけどね」

そう。
あったとしても、別に構う事なんか、無いだろう。

それでも聞いてしまう自分が哀れだ。


「…じゃ、行こうか」
「…はい…あ…」
「何?」
「…あの…リリアンの、裏門、行ってくれませんか?」
「…いいけど」


正面門ではなく、裏門。

何故か解らないような、解るような。
そんな綯い交ぜの気持ちでハンドルを握った。

祐巳ちゃんの家の方へ行く道を通り越して。
見慣れた街並みを尻目に。

ほんの数十分。

その時間でリリアンの裏門に辿り着いた。

「…着いたけど」

俯いている祐巳ちゃんに声を掛けると、意を決したように顔をあげた。

「聖さま…」
「何?」
「好きです」
「…祐巳ちゃん?」

どうしたの?なんて、不粋な事を云いいそうになっていた私に、祐巳ちゃんが近付いてきた。

デ・ジャ・ヴュ

いつか、こんな場面があった。
あれは、私からだったけど。

触れるだけのキスを、祐巳ちゃんの唇が落とす。

「…祐巳、ちゃん」
「好きです…聖さま」

唇を再び近付けてきた祐巳ちゃんに、なんとも云えない気持ちになる。

「…祐巳ちゃん…好きだよ」


泣きたいくらい、悲しくなった。







また明日、とそう云いながら、ポケットの中の「小さなそれ」に触れる。

「まって」
「これ、あげる」
「…これ?」


手のひらを、祐巳ちゃんに差し出す。


「…鍵?」
「そう。私の部屋の鍵、ね。…いつでも、来ていいから。私がもしいなくても…部屋に入って待ってて」

キーホルダーが下げられている。
アライグマ。

「子ダヌキは無かったから、それで勘弁」
「…聖さま…」
「何?気に入らない?」
「聖さま…っ」

祐巳ちゃんが、こらえ切れない様に目から涙が溢れてきた。


これが、今私が出来る事。

「聖…さま…っ」


手に鍵…
ちゃりん、と、祐巳ちゃんの手のひらに落とす。


「聖さま…っ」


願い。
それが今の私の願い。
どうしようもないほどの、願い。

この小さなもので、何を語るのかって感じだけど。

でも。
私にとって、物凄い意味。

それに、気付いて下さい。


涙に濡れた顔で、祐巳ちゃんは私を見上げると、体当たりするように、唇を寄せてきた。

…このまま、時間が止まればいい。









止めたい時間を無理矢理に動かして、祐巳ちゃんを帰し、私は帰路に付く。

…泣きそうだ。
でも、泣かない。

寄り道もせずに部屋に帰り、私はベッドに倒れ込んだ。

もう、何もしたくない。
そんな気持ちでいっぱいで。

明日になれば、会えるのに。
どうしてこんなに…

顔だけでも洗って寝よう…そう思ってベッドから身を起こした。

明日の朝、シャワーを浴びればいい。

とにかく、今はもう最低限の事以外、何もしたくない。
考えるのも嫌だ。

ここに、あの子がいない。
それがこんなに寂しいなんて。

どうしようもない、喪失感。

泣きそうだけど、泣かない。
違う、そうではない。

…泣けないんだ。


私は、顔を洗う為に洗面所へ行く。

勢いよく、水を出して、鏡を見た。

情けない、顔だな。

苦い思いで自分の顔を見ていた時、ほんの少しの違和感を感じた。

…あれ?


コップに、歯ブラシをさしている、それはいつもと一緒。

違うのは…歯ブラシの、数。
一本、多い。


「……あはっ」


朝、祐巳ちゃんは自分の歯ブラシをキチンと仕舞っていたはず。

なのに、何故これがここに?

ピンクと白のツートンカラーの祐巳ちゃんの歯ブラシがここにある。


その歯ブラシに、私の気持ちが妙に晴れている事に気付いた。


―――歯ブラシが「またお泊りに来るんですから、置いておいて下さいね」と云っている気がした。







後書き

執筆日:20040820-20040829

な、長い…何故こんなに長くなるかな私…
そして何故こんなクサくなるかな…

さて。
では次は封筒の謎。

『さよならのためのキス』祐巳ver

next『溜め息』


MARIA'S novel top